#11 Memory Lapse
擬空間。
地の彼方と空の果てとが交わる臨界点。此岸と彼岸の誘導路。
存在を失くした冒険者たちが骨を埋める墓場。
ほんの偶然で動き出したエレベーターは、勇敢な二人の探究者たちによって、初めて内側からこじ開けられようとしている。
ペンパを倒して地図を作り、座標をぴたりと合わせてエレベーターから飛び降りる。
完璧な計算と勇猛な勝利により、二人は元の世界に命を繋ぐことができるのだ。
それこそが美しい物語だったのだ。
そのはずだったのだ。
私は徐々に増す痛みに眩みながら、ふと一つの違和感を感じていた。
変種を継ぎ合わせて一つの変種を作った。その姿は変種と同じ球体だった。あの惑星は本当に擬空間の地図帳になっていたのだろうか?
ほんの欠片だった違和感が、集まり、膨らみ、塊となり、湧き立つ。
何故なら、この空間は――
「Shade!」
私は目を開いてそう叫ぼうとしたが、既に掠れた通気音以外の声は出なかった。
示し合わせた通りに、彼は愛用の銃を真っ直ぐに構えていた。次の瞬間、一際大きな光弾が勢い良く放たれた。光弾は風を切り、一直線に進み……まだ稼働を続けている赤銅色の装置の全体を包み込むと、跡形もなく消滅させた。
視界が酷く歪んだ。
私は――最後の最後で間違えたのだ。
[Q11:面積+ハート+シャカジリンβ+相似+バンドル+正方形限定+半月+独身+トーラス]
装置が消えた刹那、空間が文字通り裂け始めた。まるでノイズがかかったように一部がずれた。それが空間中に伝播していき、あちこちでノイズが生まれ、震えていく。
世界が電池切れを起こしているかのようだった。
「Cady」
Shadeが私の隣に座り、手を伸ばした。その手が一瞬ノイズで乱れる。
「ありがとう。君のお陰で元の世界に戻ることができる。俺一人だったなら出来なかったことが成し遂げられた。共に来たのが君で良かった」
(違う)
彼は私の前髪を払った。彼は笑顔だった。無表情ではなく、満たされた探究心が溢れ出すかのようで、彼の背後で眩しく光る太陽のような笑顔だった。
(違う。私は……貴方を助けられない)
痺れて動かない全身から湧き立つ焦燥を表情で訴えようとしたが、自分の顔にさえ力が入らない。安らかなままの表情を振り払えず、彼と目を合わせるのが精一杯だった。彼は依然として優しい微笑みを浮かべる。
「Cady、あの時はすまなかった。今ならあの誤解が完璧に間違いだと言うことができる。全てを投げ打って目的を成し遂げる君は、俺の理想そのものだ」
(私は……自分を犠牲にしてなお、貴方を……)
無力さに涙が溢れ、横に伝った。
「君に最後まで負担をかけてしまった。元の世界に戻ったなら、すぐに救護班を呼ぼう。積もる話はその後にしよう。それにしても残念だ、どうせなら俺はもっと別な……」
(貴方は……!)
彼は立ち上がった。再び眩しい陽光が顔に差す。
「異世界に行きたかった」
(異世界に行ってしまう)
私は「地図帳」の構成を間違えた。
それは本質的な間違いではない。トーラスであろうとなかろうと解は解だ。恐らく正しい構成をしたとしても同じ解になっただろう。
――そんなことは、最早どうでもいい。
何故「擬空間」が存在するのか?
何故「擬空間」に出口がないのか?
何故、彼の武器はエネルギー切れを起こさないのか?
――目の前にいるShadeは、Shadeではない。
擬空間はトーラスの形をしたエレベーターだ。その形こそが本質だ。
擬空間自体が移動することはない。ただ、至る所がそれぞれの世界と繋がっている。故に中の存在が歩いて一周する毎にエレベーターは「昇降」し、別な異世界に接続されるのだ。
――擬空間を何周も移動したShadeは、私と違う場所に立っている。
彼は既に遥か遠くの異世界への扉の前にいるのだ。
ヒントはいくらでもあった。それがトーラスだと気付いた時ならば間に合ったかもしれない。ただ変種に見惚れ、目が眩んで濁っていた私には、全てが遅過ぎたのだ。
ノイズが益々酷くなり、空間が断層のようにずれ、ついに裂け始めた。繋ぎきれなくなった隙間から、杖が作り出したのと同じような真っ暗な空間があちこちで覗く。
擬空間が壊れていく。
やっとのことで頭を横に向ける。Shadeは長く短い旅を振り返るように静かに佇んでいる。悔しさに湧く涙が無機質な草を濡らす。
「Shadeっ……!」
彼は振り返った。目が合おうとする刹那。
空間が、空が、地面が、Shadeが。
私が。
割れたガラスの断片のように砕けていった。
裂け目の向こうに落ちていく彼の表情は……
スイッチを押すと、赤銅色の装置はいつも通りに稼働を始める。研究室に静かな稼働音だけが響きわたる。
Cadyは生産中を示す赤ランプを見ながら、珍しく暫しぼうっとしていた。何か違和感があるような気がする。いや、実験は全て順調だ。大事な実験中に気を散らしてはいけない。
――Shadeっ!
一瞬眩暈を感じて装置に手をついたが、後ろの警備員に違和感を持たれないよう直ぐに持ち直した。
「……不思議なこともあるものね。変種の性質かもしれないわ」
やがて装置のランプが消え、上部から管を通ってシャカシャカが生成された。
見慣れた只の検体だ。
だがその姿を見た時、私は力が抜けたように腰から崩れ落ちた。
――トーラス。
「博士! 大丈夫ですか!」
駆け寄る警備員の声が遠く聞こえる。気が動転し、尻餅をついた弾みにポケットから落ちたものを拾い上げる。
それは無彩色の星形の護法だった。しかし、落とした拍子とは思えないほどに粉々に砕けてしまっていた。
「Shade」
警備員にも聞こえないほど小さな呟きだったが、その響きだけがいつまでも頭に残っていた。
博士の失われた自省録 終