博士の失われた自省録 #10

#10 Essense Scatter

 

「これが『地図帳』か。異質だな」

 

彼は装置の液晶を覗き込んで、九つの変種が重なり繋ぎ合わされた図を観察すると、素直な感想を述べた。疲れていながらもまた直ぐに戦えるよう、銃は握ったままだ。

 

「これも解く必要があるんだな?」

「ええ、残念なことにね。一つ一つの構造は単純とはいえ、相当な強敵になるわ。もう計算は必要ない、二人で協力しましょう」

「君は休息を取るべきだろう。無理な理詰めが祟って倒れられてはお終いだ」

「いいえ、もう猶予は限られているわ。それに……」

 

私は南中を迎えようとしている太陽を見上げた。最初に見上げた太陽の位置に重なるまでそう遠くないだろう。

 

「私は我儘なのよ。どうしようもないほどね」

 

彼は肩を竦めた。私が液晶を操作すると直ぐに装置のランプが点灯し、轟音を響かせて強大な敵の生産を始めた。

 

「Shade」

「ああ」

「その瞬間になったら、私が装置を操作して『エレベーター』を止める。ただ、もしそれが出来ないと判ったら……装置を破壊して。理論上は同じ結末になるはず」

「良いのか? 君が意識を失わなければ問題ないが、大事な相棒だろう」

「世界に一つだけの相棒はね……もう、この子だけじゃないわ」

 

彼は初めて無表情を大きく崩し、目を見開き、私を見つめた。驚いた表情だが、その目は喜びを隠しきれないように動揺している。

 

「Cadict」

「……何かしら」

「……続きは元の世界で話そう」

 

彼は直ぐに真面目な表情に戻り、銃と棒を両手に構えた。私は彼に言いたい事、話したいことが湧き出してくるのを、名残惜しく振り払って杖を握った。

 

二人が見つめる中、動きを止めた装置の上方から「それ」は静かに浮き上がった。

 

それは真球だった。

 

美しいまでに滑らかな真球が佇んでいた。水、岩、枝、雲のどれにも似て、それらを丁寧に混合して静かに濾したような真球は、まさに一つの惑星と呼んで差し支えなかった。

 

私が息を呑む横で、彼は散角銃を放った。しかし光弾は惑星の手前で滑るように弾かれ明後日の方向へ飛んで行った。代わりに惑星の周囲に純粋な自然が浮き上がる。ミニチュアの雨、礫、葉、雷などが次々に立ち込める――その一つ一つが今までに対面してきた変種に近い大きさの純粋な塊を模る。

 

彼は体勢を低くした。明らかに顔を顰めているのが顔を見なくとも伝わってきた。私も続いて杖を握り直した。

 

私と彼と惑星と、誰が口火を切るでもなく、決戦が幕を開ける。

 

 

真っ先に飛来する岩の大きな欠片を、彼が力強く叩き落とす。

 

[地図1:面積]

 

灰色の雲から幾筋もの線が伸び、一瞬後には私の横を電気の槍が走る。

 

[地図2:ハート]

 

音もなく凝集した氷の粒が足元の草を凍らせ、彼が急いで飛び退く。

 

[地図3:シャカジリンβ]

 

隙を見て彼が放った素早い光弾は、やはり惑星の手前で捻じ曲げられる。

 

[地図4:相似]

 

大量に放った光弾の一つが惑星の端を掠めたが、忽ちその部分が再生していく。

 

[地図5:バンドル]

 

水球からゆっくり散布される霧が、徐々に周囲に立ち込め、視界をぼやかす。

 

[地図6:正方形限定]

 

噴石が目前で破裂して酸を撒き散らし、私は杖のチャージを中断せざるを得ない。

 

[地図7:半月]

 

足元の草が急激に伸びて私を絡め取ろうとするのを、杖で何とか薙ぎ払う。

 

[地図8:独身]

 

惑星が鳴動すると、突如途轍も無いほどの轟音を上げた。私はよろめいた。

 

[地図9:重心+非互換]

 

 

岩の質量を受け止めれば足元が半分凍りつき、出鱈目に動けば電気に貫かれる。慎重に移動しようとも、濃霧の中で酸の破裂が襲う。草に絡め取られながら放つ攻撃は捻じ曲げられ、当たれども直ちに再生する。挙句には不定期に轟音が襲う。

 

逃げ惑う中、白衣の裾が運悪く氷に捕らわれ、転倒してしまった。一瞬の後、背中に巨大な岩がぶち当たるのを感じた。

 

「かはっ……」

 

臓腑が押し出されるような衝撃が襲い、骨が幾つか砕けるのを感じた。だが致命傷ではなかった。次が来る――鈍い痛みを抱えて立ち上がり、また走り出す。もう少し遅ければ草が首筋に締めついていたことだろう。

 

Shadeも反対側で酸の散発的な破裂を避けるのに必死だ。霧に囚われる中、彼の天性の勘だけが噴石を避けさせている。それでも彼のスーツの一部に赤紫の蒸気が纏わりつき、煙を上げ始めている。

 

それはどうしようもないほど圧倒的で避けようのない、自然の完全態だった。

 

 

[地図 - 全体]

 



 

 

 

「Cady! アレをやるんだ!」

 

氷を避けて高く飛び上がったShadeはそう言うと、棒を高く掲げた。その途端、鋭い岩塊や疾い電流が一挙に方向を変えて彼の方へと襲い掛かった。

 

私は意を決して逃げ惑う足を止め、急いで杖を構えた。そして禁断のプロトコルを唱え始めた。

 

彼は滞空中で棒を掲げながら片手で迫り来る岩と酸とを弾き飛ばしたが、一筋の雲が彼の腹部を狙っていた。走り抜けた電流が鋭く彼を襲い、彼は呻き声を上げた。しかし彼は棒を離さない。

 

じくじくと響く痛みの中で彼の名を呼ぶ衝動を何とか押さえ、私は美しい惑星に杖の先端を向けた。

 

瞬間、轟音が響いた――それは惑星の鳴動ではなかった。惑星の周囲が陽炎のように歪み、続いて異次元の暗黒が覗いた。謎の力も及ばず、空の裂け目が惑星を丸ごと飲み込もうとする。

 

その時強烈な地響きが起こり、地面が地震よりも強く揺れた。私は耐えられず体勢を崩し、杖の狙いを離してしまう。空の裂け目が閉じ、衝撃波が辺りを襲う。

 

再び目を開いた時……真球の惑星は大部分を失っていた。宇宙を練り込んだような球の内部が覗いている。周囲に漂っている小球もいくつかは失われている。しかし、一部でありながらまだ残っている惑星は蠢き、次の攻撃に向けて再生を始めている。

 

「Cady!」

 

霧が晴れ、草の束縛から逃れた彼が二本目の銃を構えている。しかしその銃口は惑星ではなく私に向いている。

 

驚く間もなく放たれた火炎が私に向かい、そして私の横をすり抜けて飛んだ。

 

振り返るとそこには新たな球体が炎に包まれて蠢いていた。

 

「装置はまだ稼働してる。俺は新手を片付ける、君は奴にとどめを」

 

Shadeは残酷にも盛んに稼働し続けている装置の方へ走った。惑星の残りを消し去るべく、私は酷く痛む胸を押さえて杖を構えた。

 

 

 

[Q10:独身+八角形+ハート+斜め+覆面+シャカジリンβ]

 

 



 

 

惑星は欠けた部分を再生しつつ、執拗にこちらの足元を凍らせようとしている。情けは要らない――私は杖を構え、再びそれを唱えた。

 

足先が地面に冷たく固めつけられる。草が裾を這い上がり巻き付く。瘴気を纏った噴石が惑星の周りに漂い始める。しかし私は唱えるのを止めない。

 

射出された噴石は一直線に私目掛けて飛ぶ。それが破裂すれば、或いは私を貫けば――

 

「変種は、私のものだあああああ!!」

 

惑星が轟音を響かせるのと、それが開くのとが同時に起こった。全てを飲み込もうとする虚空の畝りと惑星の鳴動とが惑星と私の中間でぶつかり、衝撃波となる。衝突した音波はそのまま押し合い、他方を呑み込もうとする。猛烈なエネルギーの均衡に、地面が、草が、空気が慄く。擬空間を大きな波紋が襲う。

 

「ああああああああああああ!!!」

 

巨大な圧力が杖の先端からびりびりと伝わり、私は咆哮する。

 

均衡が震え、揺らぎ、徐々に崩れ始める。エネルギーの波が惑星側へと押されていく。異空間が口を開ける――

 

全てが吹き飛んでいく。

 

 

 

――目を開けると、氷も蔦もなかった。惑星は消え、ただ青い空だけが広がっていた。

 

元通りになった周囲の草は変わらず静かで、轟音の残響が少しずつ消えていくのを感じる。

 

私は脱力し、仰向けに倒れ込んだ。肋骨の痛みが響き、もう動けそうになかった。

 

眩しい陽光を、一つの影が遮った。

 

「無事か」

「助け起こすのは後にして……装置を……太陽が……頂点に…………」

 

渇ききった喉からもう声は出なかったが、それ以上の説明は彼には必要なかった。彼は使い慣れた銃を構え、装置に向けた。私は目を閉じた。