博士の失われた自省録 #9

#9 Force of Will

 

次々に現れる土とも草とも風ともつかない奇妙な極彩色の塊。それが生まれるや否や、女は唐紐のような数式を書き連ね、男は眩い光弾と火柱を次々に放つ。赤銅色の巨大な装置の鳴動に鼓動と息を合わせるが如く、ここに二人の探究者たちは輝きを散らしていた。

 

流星群のように光弾が飛び、マーブル色の水球を押し流す。幾つかの弾が水球の端を荒々しく掠めると、水滴が千切り飛ばされて飛散するが、それらが次々に深緑の葉へと形を変えて浮き上がり、ひらひらと水球の周囲を旋回し始める。周回するうちに速度を増した木の葉がやがて分かれては鳥群のように一団となって飛翔し、地上を目掛けて飛ぶ。瞬く光弾とさざめく木の葉が空中で相殺し或いはすれ違い、それでも数えきれないほどの葉の刃が弾の間隙を縫って二人を襲った。

 

「こっちだ!」

 

Shadeが計数棒を掲げると、私の方に向かっていた葉が悉く旋回してそちらを狙う。彼は素早く低くした体勢を横転させて二つの葉の群れを躱した。しかし深緑の旋風の幾らかは執念深く追尾して飛び、彼の背を掠めた。整合子の縫い込まれた頑丈なスーツの表面が削れて傷が付く。

 

「『相似』の反撃・掃射性能に『断片』で更に磨きが掛かっているわ! 大きめの一撃を叩き込んで『偶奇』のカモフラージュを貫通するのよ!」

「『半月』が発現する前に片をつける。次が来そうか?」

「即席麺が完成しないくらいよ!」

 

最初は彼の身を案じる必要もなかったが、次第に苛烈さを増す変種たちの攻撃に徐々に気を揉むことが増え、既におちおち心配して声を掛ける余裕さえも失われてきている。心配することさえ叶わなくなるのは時間の問題だ。

 

同時に私の手元も万全とは行かなくなってきた。濁流と化す装置のログと睨めっこしながら次々に等号を繋ぐ。見直しではなく自信しか頼れるものがない。瞬きをする度足元が真っ黒な穴にすげ替わり、落下する刹那装置の軋む響きに連れ戻されることを幾度となく繰り返した。体力を吸い尽くした空腹と口渇とが、次は生命力を不可逆的に削り取り始めていた。

 

ああ、それでも――

 

「これで草臥れ、後が支えてるんだ!」

 

視界の端で時に張り上がる喊声が、その度に弦をきりきりと引き延ばすように私の体内を駆け回り骨と腱とを響かせた。彼が宙を舞って綺麗に着地するのに一瞬遅れて、マーブル色の水球は纏っていた葉を手放し、諸共霧に変わっていく。何度目かの勝利だ。

 

彼も私も戦績を数えてはいなかったが、それらを一つ一つ霧にすることが本能に組み込まれつつあった。そうでもしなければ、羽休めを待ってくれないそれらに反対に地面の一部にされてしまう最期が大口を開けて待ち構えていると了解しているからだ。私はどちらかといえば空の一部でありたかったが。

 

気の進まない準備に応えるかのように、装置のランプが点灯し、振動を始めた。

 

「次は……良いニュースよ、遂に構成要素が五つになるわ」

「らしくないサプライズだ」

 

銃を固く手にしたまま残りの指で前髪を整えるShadeは最初の頃と同じく冷静さが張り付いた薄い表情をしているが、薄く傷付いたスーツの肩が上下しているのが隠しきれず伝わってくる。私の心配を逆に読み取ったのか、彼はかき消すように不器用に目を細め、何でもない風に繕う仕草をした。

 

「……これしき日常のうちだ。俺はそうでもないけどな……計算は?」

「『地図帳』の断片は想定より単純らしいわ。あとは要素を特定してジグソーパズルを解くだけよ」

「その後は?」

「そうね、休憩がてら即席麺より手早く説明するわ」

 

私は一瞬手を止めて装置を横目で注視しながら、回りづらい口で話し始める。

 

「貴方を研究室に招きたいくらいに、貴方の予想は的を射ているわ。擬空間はまさに異世界間を繋ぐ狭いエレベーターなのよ。今、その扉は閉ざされている。私達――私には正規の手順で『降りる』方法は見つけられなかった。だから、扉をこじ開けて飛び出すしかないわ」

「だが、昇降中のエレベーターから無理に出たらタダでは済まないんじゃないか? 第一、扉を開けるバールはどこにあるんだ」

「『地図帳』を使って擬空間の座標を特定するのよ。そして、バールはこれ」

 

私は激しく鳴動し熱を噴き出す装置を指差す。

 

「適当な瞬間・場所で適切な行動をすれば、元の世界の同じ場所に元通りよ。――理論が正しければね」

「勿論君を信じるとも。猶予は?」

「もう数刻でここに来てからちょうど一日になる、それを逃せばもう一日。次は無いと考えて」

「よし、生成速度と難易度を限界まで上げてくれ。これでも『大短絡』を乗り切った腕を信じてくれるか?」

「へえ……武勇伝は現世で聞きましょう」

 

彼は歯を見せて笑った。私は二本のレバーを更に押し上げた。

 

刹那、上部から飛び出した紫の粘液のような物体はその全面から刺々しい酸の銛を振り翳した――そして急旋回し、球技選手の如く棒を構えた彼の方へ恐ろしい勢いで突っ込んでいく。

 

「希望を抱ける限り、人がペンパに侵蝕されるのは夢のまた夢であり続けるんだ」

 

 

[Q9:覆面+Tapa-like+黒面積+バンドル+重心]

 



 

 

 

彼が光弾で中央を正確に撃ち抜こうとも、粘液塊は崩れ去ることなく蠢いて徐々に形を取り戻し、その傍ら飛び散った粘液を針に成型して撃ち出す。彼が横転して躱せば空を切った針が地面の手前で旋回して再度背中を狙い、棒で弾けば破裂して黒紫の粘液と蒸気を撒き散らす。そうこうしていると粘液の本体が蠢いて分裂し、銛だらけの分体を投げつけてくる。既にその変種は現世でも存在しうる限界を迎えつつあるのだ。

 

粘液が草に纏わりついて瘴気を上げ、足の踏み場を減らす。未だ彼が足をとられていないのは奇跡と言えた。しかし蒸気さえもが蠢いて取り囲む中、次々に打ち出される分体を力一杯弾く彼は徐々に怯みつつあった。

 

「地図ができたわ!」

 

その声を聞いて一瞬振り返った彼は、前方に迫っている分体に対処するのが遅れた。

 

私が口を押さえた刹那、彼の全身を包んで丸ごと溶かし尽くそうとする分体が……弾け飛んだ。

 

「!?」

 

目前の珍事に私だけでなく棘も瘴気も粘液球も一瞬怯んだ。が、いち早く我に帰ったのはShadeだった。

 

彼は素早く散角銃を抜き、何かを唱えながら引鉄を引いた。再びそれが動き出すも、全ては彼の射程の内だった。見慣れた光の弾ではなく、逆に周囲の明かりを全て飲み込まんばかりの真っ黒な弾が銃口から放たれた。弾が粘液に当たるというよりも、粘液が弾の導路に吸い込まれたという表現が適切に思えた――粘液球は捻じ曲がるように中央から圧縮され、手を外に伸ばすように踠きながらも徐々に吸い込まれ、そして弾ごと跡形もなく空と消えた。

 

彼が銃を丁寧に仕舞う間も、私はぺたんとその場に腰をついていた。

 

「心配かけて済まない。誰にでも必殺技の一つや二つあるものだが、こちらの世界での目新しい挙動はやはり心臓に悪いな」

「それより、どうやって分体を弾いたの」

「……それは」

 

彼は急にばつが悪そうに顔を逸らし、ポケットから何かを取り出した。

 

――ばらばらになった無彩色の星の破片だった。

 

「……お守りどころか本物の護符だったとは知らなかった、申し訳ない」

「適切な役目を果たしただけのことよ。直せばまた使えるわ」

 

私は欠片を受け取り、彼の視線の先に回り込んで微笑んだ。

 

「さあ、脱出の時間よ。不思議な体験を一つ残らず持って帰りましょう」

 

私は無意識に両腕を大きく開いた。