博士の失われた自省録 #5

#5 Dream Fracture

 

日が傾きかけた頃、装置の赤いランプが点灯し、何度目かの生産を予告した。二種混合の生成を始めてからこれで四回目だ。Cadyは計算の手を止め、愛用の杖を取り出した。

 

戦うことに不安は無い、それは私の本心よりも寧ろ強迫的な信念に近かった。自らペンパを作り出す者として戦闘講習は欠かさず受講してきたし、実験室では硝子の中で弱々しく這う変種たちを幾度となく処理してきた。

 

それが如何か、この擬空間では自由に飛び回り熱烈な攻撃を浴びせてくる変種に、しばしば足が不随意に竦む。生物でないあれらにほんの愛着を抱く自分を疑った。只の「プログラム」をまるで意思ある精霊のように見せかける世界のシステムを憎んだ。進んでShadeの顔を見たい気分ではなかったが、装置が鳴動する度に草原の彼方を――北よりは南を――思わず一瞥した。

 

葛藤の鎖に纏われる私を、さらに縛り付けて欲しいと願ってしまったのだろうか。

 

装置が大きく揺れ、消灯したランプの横から物体が放り出された。今回の塊は黄緑と赤紫がマーブル模様に混ざり合った小さめのスライムに見える。例によって何の支えもなく空中に浮いているが、装置の上空に浮かんだまま微動だにしない。想定外の挙動に私は目を見開くが、我に返って杖を構える。私はこの変種の構成要素を知っているので、一瞬でも情けをかけるべきではないと知っている。知っていたのだ……

 

瞬間、スライムは本体を微動だにしないまま、表面から緑色の光線を一直線に放った。「詠唱」を中断し、素早く後ろに飛び退く。目の前の地面にレーザーが突き刺さり、草が焦げる匂いと土が抉れる音がする。だがそれらを認識する前に二本目の赤紫色のレーザーが飛んできた。それを横に躱すと三発目が、転がって受け身を取ると次が飛んでくる。絶え間なく飛来する二色のレーザーに白衣の裾が貫かれ、白い煙を上げる。

 

私は自分の失敗を悟り、体勢を立て直すのもそこそこに走り出した。

 

 

 

[Q5:矢印+境界]

 

 

 

予想通りというべきか、Shadeは自分が歩幅を一割増やしたことが正解だったと分かった。夕空の下、かなり遠目ではあったが、装置の上に浮かぶ物体から恐ろしい頻度で二色の光線が撒き散らされているのが認識できた。Cadyは杖を握るのもやっとという風に長髪と白衣を乱して走り回り、そのすぐ背後に次々と着弾した光線が白煙の軌跡を形作っていた。

 

近接戦闘と狙撃を天秤にかけた末、俺は散角銃を構え、よく狙いを定めてスライムを撃った。今回は強く輝く光弾が一つだけ真っ直ぐに飛び、数秒後に遥か彼方で光線が止んだ。俺は装置と彼女のどちらも誤射しなかったことに安堵の溜め息を吐いた。

 

確実に誤射しないであろう距離まで来ると、膝をついている彼女の姿がよく見えた。俺はさらに駆け寄った。

 

 

 

「無事か!?」

「えぇ……さっきより早かったわね……」

 

彼女は既に呼吸を整えていたが、額や首筋には汗が流れていた。白衣の尾はレーザーに焼かれたのか幾らか茶色く変色し、皺が目立っている。

 

「大丈夫よ、計算はかなり進んでいるわ……あとは空間構造の特定ができればね。貴方の成果は?」

「……見ての通り、一周して戻ってきただけだ。歩いた距離はさっきと同じくらいだな、それより君は――」

「本当に? だとしたら脱出の目処が立つわ!」

 

彼女は再び立ち上がり、まるで疲労を一時忘れたかのように装置へ向かう。一抹どころではない心配を一旦側に置いて俺は彼女に続いた。彼女が指差す液晶を覗き込むと、そこには球や円柱や円錐や立方体などの幾何学的な図形と、小さすぎて読めない数式が大量に書き込まれていた。彼女に悟られない程度に眉を寄せる中、説明が始まった。

 

「まずこの空間に不変時空構造が入るか否か……いや、簡潔に話すわね。擬空間が有限か無限かには大きな差があるのよ」

「有限か無限かって……そりゃ俺が確かめた通り何周でも無限に歩けるだろ?」

「いいえ、見るべきはその面積よ。もし私達の惑星と同様に擬空間が球面だったとしたら、地表の面積は有限しかない。たとえば逆に無限の長さを持つ円筒だったなら、『底面の周長×高さ』で、面積は無限になってしまうわ」

「そういうことか。ん、待てよ――ここがその無限の円筒面だとしたら、高さの方向に歩くとどこまで進んでも元の場所に戻って来られない。俺が東と南のどっちに歩いても戻って来れたのはおかしいな?」

「鋭いわね、だから擬空間は円筒面じゃない。そうなると最有力候補は元の世界と同じ、球面よ」

「球面か。いや……」

 

彼女は汗を滲ませながら熱心に話す。

 

「何にせよ、擬空間として残っている候補は概ね有限なものばかりよ。そしてそうだとすれば、パズルで『地図帳』を作ることができるわ。この空間を解いてしまえる」

「何だって? 空間を解く?」

「細かい説明は一旦省くけど、要するにこの装置が生み出したパズルを解くことで、この空間の設計図が完璧に特定できるのよ。そうすれば脱出の方法が自ずと分かるわ」

 

朗々と話す彼女の声が次々に飛び込み、消化しきれずに脳内を駆け回る。

 

「……済まないが俺の理解が追いつかない。要するに何をすれば良い?」

「貴方にはあと数周、この空間を歩いてもらうわ。それで擬空間の構造を完璧に特定するの」

 

俺は堪らず声を上げた。

 

「いい加減にしてくれ……これで3度目だぞ、次は戻ってきたら君が骨でした、じゃ洒落にならないんだ。悪いことは言わない、別行動は控えよう」

「……さっきの説明じゃ納得しなかった? 私は少なくとも貴方の見立て程柔じゃないわ。第一、私には測量はできないし、装置を守る必要がある。それも含めての役割でしょ?」

 

彼女はまるで自分が意固地ではないと余裕ぶるように、目を閉じて髪を掻き上げた。

 

「残念だけど私達の活動時間も有限よ。武器のエネルギーもいつまで保つか……代案が見つかる頃には草を喰む必要があるかもね」

 

彼女は腹を摩った……これには言い返せない。俺にはまだ余裕があるが、彼女が極限状態に慣れていないことは確かだ。ならばと代案に思いを馳せるが、どこまでも不毛な大地をこの目で見てしまった後では粉骨砕身に頼る以外の方法が浮かばないのが酷く悔しい。徐々に高さを落とす太陽が、やや草臥れた金髪を照らし出す。

 

「悪いけど貴方の感傷に付き合う時間は無いわ。私を助けてくれるなら、武器の一つも寄越して早く行ってくれた方が、義務的に仕方なしに護るより余程有難いわよ。第一、そもそも私を巻き込んだのは――」

 

疲労を隠さない声色が強く捲し立てるが、俺は経験に従って黙っておくべきだと既に判断していた。

 

次の言葉を聞くまでは。

 

「――貴方が気紛れな興味に従って、任務を怠ったからでしょ」

 

俺は緩く開いていた手を握った。

 

「戦いが好きかと思ったら次は考え事、はたまた気が付いたら私の心配? 目的遂行に全てを賭すべきエージェントとして資質が」

「君がエージェントの何を解ってる!」

 

自分の喉から出た声量とは思えなかった。音が装置の躯体をも揺らしたように見えた。彼女はよろめき、黙りこくった。

 

「人を心配して何が悪い。俺たちの命はそう軽くないぞ、それは君もだ! それなのに自分一人で研究を進めて、大事な情報は後回し。気紛れはどっちだ、なあ!」

 

彼女は微動だにせず、一杯に開いた目で俺の顔を見つめている。

 

「君が、俺の何を解ってる」

 

気付いた時、彼女の表情は凛とした研究者ではなく、何かに怯える小動物のようだった。

 

俺は腰に取り付けていた散角銃を外し、彼女に投げて寄越した。そうしてベルトを直すと、俺は新たな方角へ歩き出した。やや勢いを減らした陽光が左頬を焼き付ける。

 

歩数を呟く声が揺れないよう、喉に力を込めた。