博士の失われた自省録 #1

#1 Essense Capture

 

――長く短い眠り。

 

水底に沈んでいたShadeの意識は急速に引き戻された。

 

頬に水がはねる感覚を得て、目を開いた。本物の水だ。

 

青空の下、俺は草茂る地面に仰向けに寝ていた。よく知る空はこんなに鮮やかだっただろうか?

 

雨も降っていないのに頬を伝う水の出自を確かめるため、俺は上体を起こした。

 

 

 

白衣の女性が戦っていた。だが相手は人間ではなかった。「それ」はさながら空を飛ぶ水であった。半透明の青い水の塊が宙に浮かび、生物のように形を変えていた。「それ」は自身を触腕のように動かして鞭を振るい、あるいは自身の一部を切り離して投げつけてはまた合体し、表情など存在しないが明らかに意思を持ってその女性を攻撃していた。

 

女性に見覚えはなかったが、その手に握られている武器は見慣れていた。あれはうちの部門の標準装備の1つ、対シャカシャカ用準小型携帯処理杖だ……それはシャカシャカの導入部を特定し攻撃することができる、しかし攻撃はあまり効いていないようだ。

 

金髪を振り乱して応戦する女性は、ふと此方が起きたことに気づいた。

 

「そこの貴方! 手伝ってくれない!? そのスーツ、うちの部門のエージェントでしょ! このシャカシャカを何とかして! 『正方形限定』の変種よ!」

 

驚いた。確かに自分の装備はシャカシャカ部門の標準支給品だったが、一方でその水の塊は自分が見慣れた「シャカシャカの変種」の姿とは似ても似つかなかった。だが水弾に撃たれる彼女を前にして、疑う余裕はなかった。

 

 

[Q1 : 正方形限定]

 

その男性が水球の中央に拳を叩き込むと、一瞬その水全体が凍ったように動きを止め、そして統率を失ったただの色水のように落下した。草の中に落ちた水はきらきらと光り、地面に吸い込まれるように消滅していく。

 

男性が拳を下ろすのと同時に緊張が解け、私は腰からへたり込んだ。

 

「……ありがとう。貴方のお陰で助かったわ」

「ああ、一応は無事で何よりだ」

 

彼はこちらに向き直る。

 

「だが質問させてくれ、俺は気づいたらそこに倒れていたんだ。ここはどこだ? 君は誰だ? さっきの水は何なんだ?」

 

「落ち着いて、一つずつ解決しましょう。まず自己紹介が必要ね…私はCady。P3シャカシャカ部門の博士よ。気がついたらここにいて、あれに襲われたわ」

 

「研究者か。俺はShade、君と同部門のエージェントをやってる。そうだ、あの水塊がシャカシャカだって言ったな……俺が見知ったものとは全く違うぞ。あんな姿をした変種は見たことがない」

 

「そうね、でも私たちはさっき確かに同じ方法であれを倒せた。姿が違うのは、この場所が何か関係しているのかしら」

 

ペンパ。世に生きる者ならばその存在を、ましてその脅威を知らない者はいない。論理であって生物でなく、手で触れど会話は望めない。私達が感情こそを以って世界に蔓延る裏側で、副産物たるそれらが影を食い尽くしつつある。人が物を想う限り、ペンパも在り続ける。数独、ヤジリン、へやわけ……彼らは然るべき永遠の敵だ。

 

生物の突然変異に相当する「変種」は、ペンパ、特にシャカシャカでは決して珍しくない。しかしながら先刻の飛行物体は既知のシャカシャカの容貌とはかけ離れていた。あたかも金属缶を柑橘だと看做すことに彼は納得がいかないようで怪訝な顔をした。冷静さが張り付いた薄い表情だ。

 

「ああ、この場所といえば……」

 

私たちは改めて周囲を見回した。

 

平坦な地面、一面の草地、一面の青空、まだ昇り切っていない太陽。全てがどこまでも水平で、視界を遮るものは何もない……いや只一つ、身長ほどもある赤銅色の大きな装置が二人の近くに置かれている。

 

私たちは自然に装置に歩み寄った。

 

「俺の知っている場所じゃない。この装置は何だ?」

 

「私もここに来たばかりで何も分からないわよ……ただ、これを調べるのは任せてもらえるかしら」

 

「構わないが、安易に触ると危険じゃないのか?」

 

「良いのよ、分担しましょう。貴方はこの周囲を調べてもらえるかしら」

 

そう言うと彼の返事も待たず、私は装置を操作し始めた。レバーに触れた瞬間、不安そうな顔をしていたShadeがあっと声を出しかけた。私が慣れた手つきで液晶をなぞって微笑むと、彼はさらに不可解な表情を浮かべ、それから草むらや地面を調べに歩き出した。

 

二人の手探りの冒険が始まる。